2012/12/06

ル・トン・ミテ(マクラウド・ズィクミューズ)のショート・インタビュー


マクラウド・ズィクミューズ、ひいてはル・トン・ミテについてこれ以上言葉を費やして説明するのも無粋ではありますが、彼のこれまでの歩みや思想を少しでもつかんでもらうために簡単なインタビューをしてみました。日本の音楽のこと、そしてこの度1枚のアルバムとしてまとまった「クモコクド(雲国土)」のこと、また音楽そのものについて彼の考えを端的に知る良い機会になればと。にしてもマクラウド、やっぱり面白い人だなあ。

■日本の音楽や文化に造詣が深いあなたですが、興味を持つようになったきっかけは? 2003年にマヘル・シャラル・ハシュ・バズが米西海岸ツアーを敢行しましたが、そのときに彼らと出会ったことも大きな契機のひとつだったのでしょうか?
□日本との最初の出会いは地図を通してだったね。子どものころ部屋中に地図を貼っていたんだ。日本やいろんな国、山や丘や湖の地理を思い浮かべながら何時間も過ごしたな。それにおじさんからの沖縄土産も。好奇心を誘う物、神秘的な物、宝石箱とか仮面とかね。つまり、そうやって子どものときから自分の内に種が植えられたんだね。
 で、十代になると音楽への興味が芽生えて、最初に耳なじんだ日本の音楽が坂本龍一がデヴィッド・シルヴィアンとやっている作品だった。それから図書館や何かで働くようになって日本の「伝統的な音楽」をもっと聴くようになって、日本の音楽は自分の音楽愛の大事な一部になっていったんだ。そしてまたそれは僕ら人間がどのように自分たちを表現するかについてのひとつの調査だった。すべてを備える文化などなく、自分たちの耳をアフリカ、アジア、アメリカ、ヨーロッパに大きく開くことで学べることが多くあるんだよね。
 日本のアンダーグラウンドのアーティストは知っていたし、オリンピアに住んでるときに日本の友達も数人できた。そういう点でも北西部の音楽シーンには感謝してる。特にザ・カーテンズ(元ディアフーフのクリス・コーエンのグループ)とアリントン・デ・ディオニソ(元オールド・タイム・レリジョン、現マライカット・ダン・シンガ)を通して僕はディアフーフとそのシンガーであるサトミさんと出会えたんだからね。あと、シアトルにいたNaっていうバンドも好きだったし(日本からの留学生で構成されたグループ。僕が野村和孝さんと知り合ったのも彼らを通してだった)、二階堂和美さんもアメリカをツアーしていた(2003年)。もちろん2003年のマヘル・シャラル・ハシュ・バズのツアーは重要だったね。そのときに工藤冬里さんとマヘル・シャラル・ハシュ・バズの面々に会って、ル・トン・ミテとしてオリンピアで共演したんだ。
 そのコンサートのあと、彼らはKレコーズの「大部屋」と、そのとき僕が作業していた隣の活版工房でレコーディングしたんだ。そうして必然的にさやさん、植野さんと知り合って(そのときテニスコーツはオリンピアでは演奏しなかった)、大谷直樹さんや皆さんとも知り合えたんだ。僕は遅くまで起きてて、彼らのノリは自分たちのとはちょっと違うなって感じてた。でもなぜか彼らのことは家族みたいに思えたんだよね。工藤さんはバスーンのソロ・コンサートに来てくれて、僕も録音に参加しないかって声をかけてくれたんだ。こうしてお互いでシェアし合うリレーションシップがはじまったんだよね。超自然的経験だった。

■ル・トン・ミテはそもそもどうやってはじまったんですか?
□ル・トン・ミテはパンク・ロックの理想主義の持続を目指してはじめたんだ。僕にとってパンク・ロックは音楽の自由、音楽の新しいつくり方を見つけることだった。それは個人的な音楽で、楽器の弾き方の探求でもあったね。そういったものが自分にとってのパンクだった。ベースとギターを何年も弾いて革新的「ノイズ音楽」をつくったあと、逆に「ノイズから生まれた音楽」をつくってみようって思いついたんだ。それが1998年のことだった。1本のカセットをまずはリリースしてね。そのときのグループは僕だけだったんだけど、2台のカシオSK1と2台のマイクロカセット・レコーダーではじめたんだ。そこから「虫の食った(古くさい)トーン」を表わすためにこの名前「ル・トン・ミテ(仏語で「虫の食った音色」の意味)」を思いついた。アーカンソーのリトル・ロックでコンサートを2回やって、それからオリンピアに引っ越して時々コンサートをやるようになって、でも、そのころはそれぞれのライブにテーマがあってひとつひとつが全然違ってた。1回のパフォーマンスのためだけに曲をつくってね。ダンテの『神曲~地獄篇』、水位の上昇(「ヴェニスへの備え」)や『フラットランド~多次元の冒険』っていう本をテーマにしたり、ちなみにマヘルとのコンサートは火星がテーマだった(火星大接近の時期だった)。そうして2004年には曲を演奏するようになってツアーもはじめ、このプロジェクトがよみがえったんだ。だから生まれは南部だけど育ちはオリンピアなんだよね。

■『クモコクド』というタイトルは「八雲立つ出雲の国」を思わせるのですが、あなたは実際に日本にきて出雲地方を旅行されてましたね。出雲に限らず、あなたにとって日本の田舎の魅力はどういうものですか?
□アメリカ/ヨーロッパでホーボーだった数年を終え、ある美しい間違いがあって僕は日本にやってきた。僕がそれまで暮らしたオリンピアや他の町と似ているかどうかは意見が分かれるだろうけど、僕はすぐになじんだんだよね。山々、海、それから興味を惹かれる人たちに。杉は子どものときに過ごしたレッドウッドの森を思わせたし、すべてのものがふさわしい場所にあるように見えた。僕にとっては森や海岸は自分をリフレッシュさせ新しい自分に生まれ変わる場所なんだ。においや景色、苔も巨木もすべてが僕をリフレッシュさせてくれる。時々、迷子になって道を外れて、クモの巣や岩、木や竹藪を見つけるのも素敵なことだしね。人間は人口の多い町に住んで、他の空いた空間は野生に任せるべきじゃないかな。幾つかの点で田舎暮らしは世界中どこも似通ってるよね。時間の流れがゆったりとして仕事はもっと肉体的なものになり、季節の移り変わりにも敏感になるしね。
 僕にとって『クモコクド』は田舎と都会の両方。日本、ベルギーとアメリカの間にあるどこかの土地のことで、他人と分かち合った復興と内省の体験なんだ。

■活版印刷の職人、パフォーマンス・アーティスト、レコード・レーベルのスタッフ、グラフィック・デザイナー……あなたはとても幅広く活動されていますが、その中でも特に音楽に惹かれる理由は何ですか? 音楽でしか託せない感情、音楽でしか表現し得ないものとは。
□そうだね。僕はたくさんのプロジェクトに関わってる。人生は種々の体験と芸術の積み重ねなんだ。それらはみな等しく重要で同じように僕の人生を形成してくれた。
 音楽も卓絶したアートのひとつだね。時間の外側で存在していて、僕の場合、音楽を奏でると「クモコクド」のようなところ、もはや時間が存在しない場所に足を踏み入れてしまうんだ。だから僕のつくる曲は短いのかもね。時間の感覚がなくなって30秒の曲でも演奏していると2時間ぐらいに感じちゃうのさ。どうしてだかわからないけど。
 これもまた自分にとって音楽が重要な理由のひとつなんだ。特にル・トン・ミテについて言うとそんなに多くの美学的な決定事項はなかったんじゃないかな。僕の個人的思想をシェアできる唯一の方法がこれだったんだ。だから、すべての曲がそれぞれ違う方法で扱われているのかも。それぞれが独立した物語、1冊の日記帳のそれぞれの記述みたいなものなんだ。全部の日が同じわけじゃないけど、同じひと続きのものだろう。多分、僕が「フィーリング」を表現できる唯一の方法が音楽なのかも。この儚いつかの間の瞬間瞬間を表現し、生きる方法が音楽だったんだ。