2012/09/18

ナイーム・アモールのショート・インタビュー

ツーソン近郊のサワロ・サボテン

 この春にリリースされた1枚のアルバム、ジャイアント・サンドの拡張版とも言えるジャイアント・ジャイアント・サンドのアルバム『Tucson』。僕は2枚組の輸入盤アナログ・レコードを買ったのだが、それぞれのレコードを入れたスリーブには歌詞とオペラのト書きが掲載されていた。まだ全部を読み切ったわけじゃないけど、その歌劇はこうやって幕を開けるらしい。

ジャイアント・ジャイアント・サンドのアルバム『ツーソン』
国内盤はディスク・ユニオン~ファイアー・ジャパンより
ツーソン:カントリー・ロック・オペラ 
幕が上がるとサワロ・サボテンのたくさんのシルエット。サボテンの背後に巨大な黄金のミラー・ボールの太陽が昇る。朝となり舞台上の照明も明るくなり、サボテンがゆっくりとワルツをはじめる。何度か旋回したのち、その真ん中にひとりの人間がいることがわかるように離れていく。 
気のいい男の子のような白髪交じりの男が現われる。 
そして…。 
オペラがはじまる。
猫が群がるハウ・ゲルブ(ジャイアント・サンド)

この白髪交じりの男というのはやっぱりハウ・ゲルブか、な。悪魔のように角度のある眉毛にぼさぼさとかき上げた髪。そして、深い深いため息のような歌声。砂漠のルー・リードとかなんとか、それはともかく、あらためて自身が暮らす米アリゾナ州の町の名前をタイトルに、その気候や植生、人間模様や悲喜こもごもをオペラにまとめるなんて…。やっぱり舞台のある音楽っていいな。

とまれ、その現実のツーソン・ロック・オペラに欠かせないバイプレイヤー、ナイーム・アモールのことをより知ってもらうために、簡単なメール・インタビューをしてみました。アルバム『ダンソン』のサブテキストとしてどうぞ読んでみてください。個人的には60年代のシチュエーショニストのひとりが関わっていたというジェネラシオン・カオのことが気になったりも。とにかく、簡単なやりとりとはいえ、その一筋縄でいかない感じが、ところどころからでも感じてもらえれば幸いです。

にしても、リリースしたばかりの『ダンソン』ですが、本人自ら「似非ブラジル音楽」というように本場じゃない音楽家のちょっとしたいかがわしさが大きな魅力です。ツーソン周辺の渋いオルタナティブ・カントリー・ロック・ファンはもちろんだけど、むしろウィークエンドとか一時期のヴィック・ゴダード、ジャズ・ブッチャーやマックス・エイダー、それこそエブリシング・バット・ザ・ガールやスタイル・カウンシル、キッド・クリオール&ザ・ココナッツなんて懐かしい面々と並べて聴くのもオツだったりするんですよ、ね。ともかく、アルバム『ダンソン』についてはこちらをご覧ください。


『ダンソン』を言葉にすれば、似非ブラジル音楽の正統派ナイーム・アモール的アルバム、って感じかな。

■まずはあなたの子ども時代のことを教えてください。どんな音楽を聴いて育ったのか。そして今でも強く印象に残っている思い出があれば。
□パリ(18区)で育ち、両親は芸術家、父はパリ国立高等美術学校の教師だった。母も美術の教師で若いときはダンサーだったらしい。そんな両親が持ってるレコード、クラシックやジャズを聴きながら、ラジオでかかる当時のヒット曲も好きで聴いてたね。それに俺には音楽好きの親戚がたくさんいたんだ。祖父母、おじさん、おばさん、それからいとこ。休暇になると集まってみんなで演奏したもんだ。老いも若きも下手も上手も一緒にね。そこでは音楽をシェアすることが大事だった。ベストを尽くしてよい時間を過ごし、美味しい料理にありつくことがね。

■『ダンソン』の収録曲「Le Revenant」で、あなたはボードレールの詩に曲をつけていますね。セルジュ・ゲンズブールの60年代初頭の曲にも「ボードレール」という曲がありました。
□まさにその曲がそもそものアイデアの始まりだった。で、最初は単なるエクササイズで「Le Revenant」に曲をつけてみたんだよね。でも、そのエクササイズに手応えを感じてそのままアルバムをつくってみたんだ。ゲンズブールの影響はフランスにいると免れ得ない。どんな音楽のジャンルだろうが気にしないっていうことを彼のような人から学んだんだと思う。ただ自分の音楽をつくるだけ。『ダンソン』を言葉にすれば、似非ブラジル音楽の正統派ナイーム・アモール的アルバム、って感じかな。他にフランス人アーティストだと、レオ・フェレ、イヴ・モンタン、ボリス・ヴィアンといった名だたるシンガー、それ以外にもバーバラ、アンリ・サルヴァドール、アンリ・クローラ、ジャンゴ・ラインハルトといった人が好きだね。

■アメリカに移住して15年が経ちますが、それでも自分の中に残っているフランス性のようなものがありますか?
□俺は実際の自分以上にフランス人っぽくしようとしないから、驚く人も少なくないみたいだね(多分がっかりさせてるかも)。アメリカではベレー帽をかぶって口ひげを生やしたほうが人気者になれるからね。俺が自分のフランス性を感じるのはその感受性の点かな。ものごとの見方の違いや距離感、分析することへの強い情熱…。でも同時に俺はアメリカを正確に見ることができないんだ。アメリカにはワールドワイドな影響力があって、僕みたいなひとりのフランス人の中にもアメリカがある。移住してもう15年も経つしね。アメリカの文化ということでは、少なくとも音楽について言えばフランスよりもスポンテニアスで、フランスほど分析的な面は少ないように思う。ここで暮らして四六時中演奏してきたし、僕もアメリカのレベルに達したんじゃないかな。

■あなたが以前やっていたウィッチズ・ヴァレー、ジェネラシオン・カオといったバンドについて教えてください。
□ウィッチズ・ヴァレーはなかなかのサイケデリック・パンク・ロック・バンドだったよ。余り理解されなかったけどね。今でも聴けるアルバムが1枚あるはずだ。ジェネラシオン・カオは、単なるバンドというよりも大がかりなプロジェクトだった。役者や音楽家を交えた学生の一団だったんだ。60年代の状況主義者(シチュアシオニスト)だったマルク・オー(Marc'O)も関わっている政治運動のひとつでね。演者としてステージでどう動けばいいのかをそこで学ぶことができたし、音楽的にも作曲家のジャン・シャルル・フランソワと即興を主題に6年間仕事をすることができた。

■ちなみにマリアンヌ・ディッサードとはどうやって知り合ったのですか?
□ジェネラシオン・カオを通して知り合ったんだ。結局実現しなかったけど、彼女はジェネラシオン・カオのツアーをオーガナイズしようとしたんだよね。でも、俺はツーソンに移っちゃったから…。

■では、アモール・ベロム・デュオは?
□トーマス・ベロムもそのジェネラシオン・カオのメンバーだったんだ。で、一緒にツーソンに行かないかって誘ってね。で、俺と一緒に来ることになったってわけ。アモール・ベロム・デュオは2002年に活動をやめちゃったけど、いつか何かやろうぜっていつも話し合ってる。ただ、なかなか時間と機会がなくてね。

■そもそもツーソンに移り住んだ理由は? ツーソンのどんな点があなたを惹きつけたのでしょう?
□ツーソンだったら毎日プレイできるからね。家にいたままでも練習できるしさ。小さな町の利点だけじゃなく、大都会のダイナミズムもあるしね。もちろん60年代のキャデラックで町を流したりした日には…。

■15年前と今のツーソンに違いはありますか? 特に音楽シーンにおいて大きな変化はあったでしょうか?
□変化はいつもある。いろんな店がなくなって、新しくオープンして、出て行く人もいれば新しく移ってくる人もいる。ただ、一番大きく変わったのは世界そのものじゃないかな。2001年の9.11からすべてが変わっちゃったし、インターネット革命が人々の暮らしや音楽の体験方法を変えたしね。

■最後にハウ・ゲルブ(ジャイアント・サンド)、キャレキシコのジョン・コンヴァーティノやジョーイ・バーンズといった人たちについてコメントをいただけますか?
□ここに移ってきて最初に知り合った3人のことだね。ジョーイ・バーンズは最初に会ったとき、まだジャイアント・サンドでベースを弾いてた。キャレキシコはまだなくてね。彼のオープン・リールで、僕とマリアンヌ・ディッサードの曲を幾つか録音したんだよね。その後、彼らとは数え切れないほどの共同作業をしたよ。3人ともみんな素晴らしい音楽家で、最高に素敵な人間たちだ。

ツーソンを見て驚け、という言い回しがあるのだとか。